あるビジネスを起こす準備をしつつ、こんな話をしていた。

女性『私は、天才と付き合うのが上手いんです。』

ケイゾクエナジー近藤「天才ってのは?」

『世の中の多くの人、つまり物事全般にかけて一定以上のスキルを持っている人が秀才で、あることはできないけど、あることは恐ろしく出来るのが天才かな。この図のように』

スマホの画面を見せられる。

多くの人びとが、中心にある円におさまっていて、天才はその円からはみ出た人々。天才は、この画面では×印で表されており、中心の円から離れれば離れるほど「天才」度が増すといい。天才度が高い分だけ大多数の秀才はもちろん、距離の遠い天才とのコミュニケーションが困難になっていくそうだ。なるほど。

近藤「とすると、天才ってのは、大抵嫌われているか、世に出てこないかのどちらかと違うかな。」

『私は、その天才のほうが話がしやすかったりします。そういわれると、(世の中の大多数を占める)秀才の中でコミュニケーションをとるのは、辛かったです。』

近藤「ほな、天才肌なんや」

『この分類でいくとそうなりますね』

『岡本太郎さんは天才なのに、文章も書いたりとか秀才にも語り掛けられるし、すごい存在でしょう』

近藤「うん。いうても、岡本太郎さんは大学で社会学を学んでいたり、両親もクリエイターだけど、父が漫画家で母は小説家だったりと、親譲りの天才肌でありながら、子どものころから表現の訓練をしている。単に、天才として生まれてしまったのでは、やはり生きづらいやろうね」

 

天才も発達障害も、得手不得手の落差が激しい人を意味するとすれば、近藤の持説では天才と発達障害に大した差はない。だから出来る限り、当人こそ天才だと思っていてほしい。

いや、自分が天才と意識しなくとも、好きなことや得意なことを、失敗しようが続けていれば「○○は、◆◆をやり続けている。多少の落ち度は見逃そう」となりやすい。

逆に発達障害と本人が認識してしまえば、不得手な方に目が行きやすい。目が行って自己抑制しようというならいいが、自分はアカン奴だと開き直って言動を抑制もしなければどうだろう。人びとの目が冷たくなり、自信を失うかもしれない。それでも、居るだけで周りを和ませるような、落ち着かせるような雰囲気を持っていれば、何の問題もないのだが、なかなか上手くはいかないものだ。

要は、天才にも色々いらっしゃる。

まずケイゾクエナジーは、たとえ小さなことでもやり続ける天才と、天才に理解がある秀才が融合する場を提供していきます。

 

 

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