教育は、Educationの誤訳という。福沢諭吉は”発育”としたかったらしいが、もともと漢籍か何かにあった「教育」のほうが広まってしまった。勝手に育つのを支援すればいいのを勘違いして、西洋に追いつくためには「教えろ」となってしまったのが、近代日本の不幸だという学者もいる。
この百年の方向性を反省したのか、最近の文部科学省は、アクティブ・ラーニングと称して自ら学んでいく趣向を重視した教育指導要領を定めている。近藤個人としては、「何を今さら」との思いが強い。

とはいえ、私は恵まれていた。
職人の父には『本は読んでも損はせん』と、高度成長期の独身時代にひと儲けした以来集めている蔵書を提供され、読むか読まないかは自由とされた。母には「ウチはウチ、ヨソ(他所)はヨソ」としつつ、事務仕事の段取りなどサラリーマン的手ほどきというのか、見せつけを何度も受けていた。持ち帰りの残業も手伝わされた。
つまり、教えられずに育てられた。常がそんな感じだから、両親ともが、学校の成績など私を評価する基準から外しきっている。さすがに、某私立大学(いちおう世界の大学ランキングには出る程度の)に現役で入学した際は、母は大喜びしたものだが、戦略的に受験勉強できた礎は当の母にあったのだ。高校の内申点を無視して、センター試験を無視して、やる範囲を絞り込み、一日の勉強時間も2時間以内に制限できたからだ。セオリー以外の考えを持てたのは、まさに「ウチはウチ」思考のお陰である。

一方、多くの同世代たちは『大学に入って大企業なり官庁へ』の筋を基本に教え込まれていた。まだバブル崩壊も迎えていなかったあの頃の日本は、レールに乗る人生が間違いないと信じている人は圧倒的多数を占めていた。
いまの小学生は、いやわかる範囲で大学生あたりではどうだろう。やはり圧倒的ではなくとも大多数が『大学に入って・・・』を過信している気がする。もちろん、2~30年前に比べて、大卒未満の就職口が狭くなっている感は否めない。が、いっぽうで大学生が余っている(18歳人口が年々減っているのに大学生が増え続ける矛盾)事実もあるわけで、逆張りをする若者がもっといてもいいように思う。

正直にいうと私は、コンプレックスを持たない意味でも大学まで行かせてもらった。実に大したことがない人間である。恵まれているのに、いまだに家庭を持たない。クズ丸出しである。だからこそ、卒業後こそ知見を養う努力は続けているし、現役の学生たちと学力テストなり何なりで対抗する自信がある。結局のところ、今も私は勝手に育っている。そして教えられるのがいまだに苦手である。

若い世代の方に(いや年長者にも)、つい喋り過ぎてしまうことがある私だが、常に心掛けているのは「内容忘れてもらって良えで」のポジションだ。ほとんどの場合、相手が出すネタに関連する話をしている(古い付き合いの後輩からは「話題泥棒」と言われ続けている)のだが、それでもサッパリ忘れてもらっていい。

もし将来、子を持つなら、勝手に育つ環境をしっかり整備して、子の需要があれば教えるような立場でありたい。
「教育」には限界が付きまとう。自発に勝るものはない。