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助け合いの生き物だからこそ「自分ゴト」

ホモ・サピエンスは助け合いで、他の霊長類や生物を凌いだ。
生死観の共有(≒宗教)などで家族以上の大きな単位で連携し、度重なる気候変動を生き抜いた。子育ても家族以上の単位で共同していて、父親をわからなくするためにも乱交の習性があったという。

助け合いのあり方は、シンプルだ。
自分で出来る仕事や作業の「何か」を担当すれば、応じて足りない部分を別の誰かが満たしてくれる。「何か」は、なんだっていい。目の前のゴミを拾うことでも、周囲を穏やかにする愛嬌を振りまくことでもいい。
助け合いの仲立ちにお金や情報技術が入りこんだ今でも、原則は変わらない。

ところが、サピエンスの中には、「何か」で動くのが嫌だったり、担当することが「何か」を考えることが嫌な個体も出てくる。すると、とにかく人を使用して何かをさせようとするか、逆に従属して出来る限り何かの判断を放棄するか、両極端に走ってしまう。
それでも、ささやかであっても使用者による労わりの言葉や、小さくとも従属側による独自の工夫などのやり取りがあれば、助け合いが成立するはずだ。これが「何か」で動いて当然、「何か」を判断して当然、になってしまうと、当然を突き付けられた側は強いストレスを感ずることになる。

使用と従属の行き過ぎた例は、雇用関係、師弟関係、親子関係などなど、色々にみられる。当然ながら、多くは使用者や師匠・親の責任に帰せられるが、子は別にして、労働者や弟子の側にも原因がないわけでもない。
結局、”自分ゴト”で考えたり動いたりしない労働者や弟子は、いくら経っても使用者や師匠の保護を離れられなくなる。やがて、企業団体や一門の中に限らず社会の迷惑になる恐れすらある。だからこそ、採用募集や弟子入り志願の課程は厳しくなされることがある。責任を取る側も、それなりに覚悟が必要なのだ。

打ち明け話になるが、以前にある友人が、気づけば私の弟子のように振る舞うようになったことがあり、本当に苦しかった。
あるいは先輩として接したつもりだが、年を追うごとに要所の判断を私に任せようとしてくる。何か発言する時も、私の顔を伺うようになる。別途、クレームや暴言の癖があったので注意したら、私の前では控えるようになったが、他の場で色々と厄介になってしまった。まさか「近藤の注意がなければ良い」になってはいないかと危惧し、言い分を聞いたところ、『昔のようなしっかりとした自分には、もう戻れない』と、自己統制を放棄するような発言まで出てきた。彼は退化したのだろうか。
これまでに彼を誤解させたり、依存を好ませたりする言動があったのだと、私は猛省した。何より、人を変えようとするなど、横柄な考えだ。それ以上の注意は控えたうえで、一定の情報を遮断して距離を置くことにした。少しでも、彼が自分ゴトで判断する環境に置くよりない。助け合いに気づくキッカケになればよい。

ここまで書くと実に私が冷たい人間に思われるだろうし、思われても構わない。どう思われようが、私は、距離を置くまでに1年以上悩んだのだ。
なにより私が疲れた。この歳にして、やっと上司や師匠の苦労がわかった。弟子を取ったわけでも人を雇ったわけでもないのに、貴重な体験をさせてくれた点では、彼に感謝している。

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