鶴瓶・さんま「捨て育て」された大芸人から思うこと

笑福亭鶴瓶、明石家さんま。二人の大芸人は、ある時期から師匠に落語の稽古をつけてもらえなくなったという。
鶴瓶の師匠、六代目・笑福亭松鶴は、『鶴瓶が来た、稽古やめよ』とほかの弟子たちに公言しては、逃げた。さんまの師匠、二代目・笑福亭松之助は、愛弟子が落語家を諦めることを肯定的にとらえ、笑福亭の屋号の代わりに自身の本名を入れた”明石家”を与えた。そのうえ、雑談そのものを見せ物にすることを勧め、今も続くテレビ番組「さんまのまんま」に繋がっているという。
弟子や部下、若手を好きなようにさせ、まずは見守る手法を”捨て育て”というらしい。両師匠とも、愛弟子に対して芸人全般としての天才を見出されていたのだろう。

このくだりを思い出すたびに、自分もまた”捨て育て”されたのではないかと思うようになっている。天才かどうかはわからないが、そうだった。

さかのぼって東京のサラリーマン時代、もっとも長く上司になっていただいた課長からは、要所要所以外は委任いや放任されていた。多少?と思われていた時期もあったようだが、別の先輩によると、徹夜を重ねてシステム移行を進めた時期を経てからは、評価が固まったらしい。
さらに、部門のセキュリティ政策の担当者でもあった私は、管轄先には1000人を超えるスタッフがいた。本社のセキュリティ管理部署の管理職、先輩方からもまた、捨て育てと思える態度をとっていただいたものだ。『近藤なら、任せておいていいだろう』と。これまた、感謝このうえない。

とここまで書くと、自慢のように聞こえてしまいそうだが、全く違う。
単に、私が扱いづらい人物であったから、賢い上司や先輩たちが、上手く泳がせてくれたに過ぎない。決して従順ではないが、ペースを間違わねば、自発性で何とかするだろうと。
実際、課長のもう一つ下の職級にも昇進はかなわず、36歳で新卒以来の会社を後にした。サラリーマン落第である。

さらにさかのぼると、私の両親にしてもそうだった。いい意味でも悪い意味でも諦めてくれたのだろうが、小学校4年生あたりから私の判断に任せるのが普通になった。この歳で不安定な身分を続けていることをとがめることもない。心の中で詫びることしきりだ。

だから私こそ、”捨て育て”を心掛けてもよいだろう。
手取り足取り教えるよりも、見守ったり、ヒントを出したり、こっそり支えるのは上手いかもしれない。言われてやるより、自分からやることのほうが、より身につきやすい。何より、私自身が動けなくなったり、いなくなったりした後のことを考えると、なおさらいい。

医師から政治家として活躍した後藤新平の名言に、「財を遺(のこ)すは下、 事業を遺すは中、 人を遺すは上なり」とある。もちろん適性にもよるが、人を残すには「捨て育て」が近道ではないかと、勝手に考えている。

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