タグ: ダメクズ

”ダメ・クズ”コンテンツを当面休止します

いつもお世話になっております、ケイゾクエナジー・近藤です。

一部で好評をいただいていた”ダメ・クズの生態学”コンテンツは、誤解のない内容ができるまで、休止させていただきます。
関係者の皆様にはお礼申し上げるとともに、お詫び申し上げます。

もともと同コンテンツを始めたのは、見方を変えれば長所になることもあるとの呼びかけが目的でした。まず、自信を持てと。
しかしながら、『自分はダメクズです~』と開き直る参加者がいらっしゃいました。開き直るだけならよいのですが、「自分はダメ(クズ)だから、何もしません」と、無努力無責任な生き方の論拠にされたのは、まことに残念でした。

”言うだけ番長”や”やるやる詐欺”の存在を認めたとしても、決して甘やかす気はありません。自分ゴトで考え動く人を支援してこそ、ケイゾクエナジーです。たとえごく一部であっても、受け手の一方的な誤解であったとしても、全く逆の影響を与えたことは、皆様に、社会に対して詫びなければなりません。猛省しております。

以上、皆々様のご理解をたまわれば幸いです。
引き続き、ケイゾクエナジーをよろしくお願い申し上げます。

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若者の無礼をすぐに責められなくなった

私が、知らないうちに無礼を働いたことは数知れずだろう。若いころなら、なおさら。かといって、今から抗議が来ても、当事者意識を思い出せず反省気分にはなりづらいから、実に心苦しい。

そもそも無礼とは、やり取りする者同士の主観がずれただけでしかない。
・・・と、やっとこの歳でわかってきたから、無礼を働いてきた相手を責めるのが難しくなってしまった。

常にタメ口の間柄なら丁寧語も何もいらない。「こんなもんだろう」が、お互いにわかっているからだ。私の両親なども、そうだ。
逆に緊張した間柄ならおのずから敬語か、年長者であっても話口調がゆっくりになったりする。この私とて、20歳も離れた若者であろうが、文章上はですます調を使い続ける。ですます調でなくなってもいいだろうと思ったら、抗議されたこともあるぐらいで、そこで争ってもしかたがない。

それで、ある学生に『メールよりLINEのほうが楽です』と言われたのは、非常に納得してしまった。メールは手紙文化の部分が残っているから、宛書や出だしの「いつもお世話に~」の文ぐらいは要るとされている。一方でLINEは、前段の挨拶など要らない。ですます調ぐらいは守っていればいい。

様々な世代の方と関わっていると、成熟と無礼はあまり関係がないようにも思う。

人前で、些細な言動について叱咤する中高年。
本当に相手を正したいなら、恥をかかせないように裏で伝えてやって、本人の気持ちにしみいるようにした方がいいだろう。あるいは、本人に悪意がなかったことを認めたうえで、「思ってもみない悪影響が出る可能性」を知らせるのもいい。まさに、知らないうちの無礼を少しでも減らすのは、年長者の役目だろう。

話の頭から、興味ないです~と発する若者。
興味関心があるふりを続けてから断るよりは潔い。が、「私に話さなくてもいいよ~」の態度を早々にとってしまっては、次のチャンスがもらえなくなるだろう。もらえなくなる覚悟があるならいいが、私がそういう態度を取られた場合、当面こちらから話すのを控えてしまう。話すことすら無礼扱いされるのでは、やむを得ない。責めはしないが、与えることも止める。経験不足の面もあるだろうから、ほぼ放置に近い形で待つしかないというのもある。

以上のことは、先天的に無礼を働きやすい脳の働きを持った人もいるから、一概には言えない。
ただし、全てを先天的特徴の責任にしてしまう人とは一緒にやりづらい。前段と同じように、責めはしないが、与えることを止めるよりない。

ある一定以上の『無礼』を感じてしまったら、己の正義を振りかざしても、悪い意味での世界の警察・アメリカ合衆国のような立場になってしまうようで、気分がわるくなるのだ。
いったん主観の防衛に熱を上げた相手に反駁しても、さらにヒートアップするのは目に見えている。たとえ心の中で「あいつ○○してやる」と思っていても、責めるよりはじっと黙っているほうが清々しい。好きの反対は無関心、嫌いの反対も無関心とは、良くいったものだ。

幸いにして私は、この2年ほどで様々な無礼を与えてもらって、成長できた。同じ無礼を二度と体験したくはないが、経験は生き続ける。相手の多くに悪意はない。故意ですらない。むしろ故意であったほうが責められるから、かえって楽だ。

当ケイゾクエナジーでは、無礼を超えるべく様々な企画をやってきた面があるが、ようやく壁にぶつかって、この近藤も気づくところが多かった。

無礼が主観の違いによる葛藤でしかないなら、『あなたの主観に合わせます』『(責任持って)こちらの主観を現します』とか『主観は出し合うにしても、押しつけは無しに』と、あらかじめ断っておけばよい。お互い、先に諦めておけば、くだらぬ争いは起きない。

いわゆる日本人的?に曖昧にした会では、数々の方に迷惑をかけてしまいました。
あらためてお詫びさせていただくとともに、今後の催し等にご期待をいただければ幸いです。

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天才と秀才

あるビジネスを起こす準備をしつつ、こんな話をしていた。

女性『私は、天才と付き合うのが上手いんです。』

ケイゾクエナジー近藤「天才ってのは?」

『世の中の多くの人、つまり物事全般にかけて一定以上のスキルを持っている人が秀才で、あることはできないけど、あることは恐ろしく出来るのが天才かな。この図のように』

スマホの画面を見せられる。

多くの人びとが、中心にある円におさまっていて、天才はその円からはみ出た人々。天才は、この画面では×印で表されており、中心の円から離れれば離れるほど「天才」度が増すといい。天才度が高い分だけ大多数の秀才はもちろん、距離の遠い天才とのコミュニケーションが困難になっていくそうだ。なるほど。

近藤「とすると、天才ってのは、大抵嫌われているか、世に出てこないかのどちらかと違うかな。」

『私は、その天才のほうが話がしやすかったりします。そういわれると、(世の中の大多数を占める)秀才の中でコミュニケーションをとるのは、辛かったです。』

近藤「ほな、天才肌なんや」

『この分類でいくとそうなりますね』

『岡本太郎さんは天才なのに、文章も書いたりとか秀才にも語り掛けられるし、すごい存在でしょう』

近藤「うん。いうても、岡本太郎さんは大学で社会学を学んでいたり、両親もクリエイターだけど、父が漫画家で母は小説家だったりと、親譲りの天才肌でありながら、子どものころから表現の訓練をしている。単に、天才として生まれてしまったのでは、やはり生きづらいやろうね」

 

天才も発達障害も、得手不得手の落差が激しい人を意味するとすれば、近藤の持説では天才と発達障害に大した差はない。だから出来る限り、当人こそ天才だと思っていてほしい。

いや、自分が天才と意識しなくとも、好きなことや得意なことを、失敗しようが続けていれば「○○は、◆◆をやり続けている。多少の落ち度は見逃そう」となりやすい。

逆に発達障害と本人が認識してしまえば、不得手な方に目が行きやすい。目が行って自己抑制しようというならいいが、自分はアカン奴だと開き直って言動を抑制もしなければどうだろう。人びとの目が冷たくなり、自信を失うかもしれない。それでも、居るだけで周りを和ませるような、落ち着かせるような雰囲気を持っていれば、何の問題もないのだが、なかなか上手くはいかないものだ。

要は、天才にも色々いらっしゃる。

まずケイゾクエナジーは、たとえ小さなことでもやり続ける天才と、天才に理解がある秀才が融合する場を提供していきます。

 

 

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