カテゴリー: 近藤のつぶやき

長年の「組織人」への配慮

知ってて勤めていれば「サラリーマン」「組織人」、飼い馴らされてしまえば「社畜」。
確かに、後者として振る舞うほうが、気楽だと思います。が、自分の責任で動く場面になると、たちまち不安になるでしょう。

ボランティア活動などは、特に不安だと思われます。いくらコーディネーターやリーダーがいても、自主判断を迫られる場面が圧倒的に多い。数値目標も部署割当はもちろん、作業手順書すらもないこともある。当たり前ながら、ボランティアは「自分ゴト」です。
企業からボランティア活動に社員の皆様を派遣いただくのは、大変嬉しいことです。その一方、ごく一部ではありますが「何でこんなところに来させられたんだ」「俺に挨拶させろ」との態度をとる方がいたります。企業勤務より社会活動経験のほうが長い私ながら、新人社員だった頃を思い出しては、ご胸中を察するように努めています。

そもそも「社畜」的でないと生きづらい世の中が仕上がったのは、各個人のせいではないです。家族のために、そう振る舞った方も少なくありません。
長らく組織人を務められた先輩方に対して、頭を切り替えるようなボランティア活動に引っ張り出すのは、さすがに失礼にあたるでしょう。まず、イベント参加や寄附等でのご支援をお願いして、もしよかったら一緒に手を動かしましょうぐらいの手順が、穏健かと考えています。

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助け合いの生き物だからこそ「自分ゴト」

ホモ・サピエンスは助け合いで、他の霊長類や生物を凌いだ。
生死観の共有(≒宗教)などで家族以上の大きな単位で連携し、度重なる気候変動を生き抜いた。子育ても家族以上の単位で共同していて、父親をわからなくするためにも乱交の習性があったという。

助け合いのあり方は、シンプルだ。
自分で出来る仕事や作業の「何か」を担当すれば、応じて足りない部分を別の誰かが満たしてくれる。「何か」は、なんだっていい。目の前のゴミを拾うことでも、周囲を穏やかにする愛嬌を振りまくことでもいい。
助け合いの仲立ちにお金や情報技術が入りこんだ今でも、原則は変わらない。

ところが、サピエンスの中には、「何か」で動くのが嫌だったり、担当することが「何か」を考えることが嫌な個体も出てくる。すると、とにかく人を使用して何かをさせようとするか、逆に従属して出来る限り何かの判断を放棄するか、両極端に走ってしまう。
それでも、ささやかであっても使用者による労わりの言葉や、小さくとも従属側による独自の工夫などのやり取りがあれば、助け合いが成立するはずだ。これが「何か」で動いて当然、「何か」を判断して当然、になってしまうと、当然を突き付けられた側は強いストレスを感ずることになる。

使用と従属の行き過ぎた例は、雇用関係、師弟関係、親子関係などなど、色々にみられる。当然ながら、多くは使用者や師匠・親の責任に帰せられるが、子は別にして、労働者や弟子の側にも原因がないわけでもない。
結局、”自分ゴト”で考えたり動いたりしない労働者や弟子は、いくら経っても使用者や師匠の保護を離れられなくなる。やがて、企業団体や一門の中に限らず社会の迷惑になる恐れすらある。だからこそ、採用募集や弟子入り志願の課程は厳しくなされることがある。責任を取る側も、それなりに覚悟が必要なのだ。

打ち明け話になるが、以前にある友人が、気づけば私の弟子のように振る舞うようになったことがあり、本当に苦しかった。
あるいは先輩として接したつもりだが、年を追うごとに要所の判断を私に任せようとしてくる。何か発言する時も、私の顔を伺うようになる。別途、クレームや暴言の癖があったので注意したら、私の前では控えるようになったが、他の場で色々と厄介になってしまった。まさか「近藤の注意がなければ良い」になってはいないかと危惧し、言い分を聞いたところ、『昔のようなしっかりとした自分には、もう戻れない』と、自己統制を放棄するような発言まで出てきた。彼は退化したのだろうか。
これまでに彼を誤解させたり、依存を好ませたりする言動があったのだと、私は猛省した。何より、人を変えようとするなど、横柄な考えだ。それ以上の注意は控えたうえで、一定の情報を遮断して距離を置くことにした。少しでも、彼が自分ゴトで判断する環境に置くよりない。助け合いに気づくキッカケになればよい。

ここまで書くと実に私が冷たい人間に思われるだろうし、思われても構わない。どう思われようが、私は、距離を置くまでに1年以上悩んだのだ。
なにより私が疲れた。この歳にして、やっと上司や師匠の苦労がわかった。弟子を取ったわけでも人を雇ったわけでもないのに、貴重な体験をさせてくれた点では、彼に感謝している。

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格差で絶望せず、今を生きる。

入学(留学)、就職(転勤)、結婚などなど、旅行や訪問目的ではなく違う土地や組織に移った時の絶望は、何に憧れるか、こだわるかによって変わるでしょう。
現代ビジネスの記事・「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由では、文化や教養に触れる度合いの地域格差について触れられていますが、大自然と向き合う度合いの地域格差もありますし、その地域が文化成熟期や経済成長期にあるかどうかの度合いだってあります。
例えば、今の日本だと、経済については憧れられないですが、文化については憧れの対象といえる。これは地方と東京・京都の構図についても同じかと思います。またシンガポールやニューヨークあるいはドバイあたりの出身者のなかにも、ブラジルやインドネシアの熱帯雨林に憧れている人はいるでしょうから、絶望の対象?はもっと多様なはずです。

生きていく環境を移すなら、土地や時代背景によって違うことが多々あると覚悟しておき、一つ一つ出来ることから順応していけば良い。というより、今ある環境を肯定できない人は、違う場所に行けば行くほど、どうやっても絶望するんやと思います。

「ここでは劣っているが、ここは優れている」とバランスよく捉える想像力は、現状肯定の補助かもしれません。凡人は未来に憧れ、秀才は過去の再現を重んじ、天才は今を生きる。どの考え方も必要ですが、天才のもととなる自尊心、今ある姿をまず受け止める心掛けこそ、私は重要と考えます。
IMALUさんの名前の由来は、父・明石家さんま師匠は「きてるだけで、まる儲け」とする一方、母・大竹しのぶさんは「いまを生き」といいます。音楽から汚れ芸人相手まで、彼女の肯定的な捉え方には納得するものがありますが、まさにお母さんの願いが影響したものでしょう。

良い記事ですが、ある側面だけ切りとって「お前の出身地は大したことない」的な流れにならないことを、祈るばかりです。

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「若者おじさん」について

若者おじさんが増えたとの表現を目にする。広い意味ではこの私も含まれるだろう。狭い意味では、いつまで経っても若いころのままで、筋トレとかオールで飲んだとかいかにも20代までのリア充感を、インスタなどにさらしている人のことを指すらしい。
若者おじさんには、別の定義も考えられる。苦手なことを諦められない人だ。
等身大の自分をわかっていて腰を低くでき、時に協力し合えるのが「大人」だと、私は解釈している。腰が低いだけでなく自己主張も大切だが、その後始末が出来るのもまた「大人」である。

もっと昔から、若者おじさんはいただろう。
だが、福祉制度や毎月給料が出るような働き方が珍しかった当時、本当に特徴のある人だけが生き残っていたように思う。すぐキレたり子どもっぽくて扱いにくいオッサンでも、アートとか技術など何か一芸に秀でていれば、周囲から認められた。

が、戦争に敗れた日本が(ほぼ自主的に)アメリカの傘に入り、経済成長を優先的に推し進めた結果、若者おじさんが生きられる枠が広がった。1950年代から1980年代にかけて、安い賃金と高い工業技術というアンバランスを生かし、とにかく海外に製品が売りまくれた時代。一芸に秀でていなくても、働き手が必要だった。
それで終身雇用と福祉を売りにした人材採用が一般化して、多分に面倒な子どもっぽさを持つ人でも会社に囲われるようになった。一向に大人にならなくとも、簡単に解雇できないから、生き残ってしまう。つまり30代で正社員身分を捨てた私は、囲われる気楽さを自ら捨てたバカだといえる。

大変失礼な話だが、今の若い人が目にする鬱陶しい大人≒若者おじさんは、先に挙げたような20世紀後半ならではの社会背景で生き延びた人もいるだろう。100年以上前なら、その多くがとっくに野垂れ死んでいる。私もそうかもしれない。

だからこそ、感謝せねばならない。
今、若者おじさんに当てはまる人は、大小の差こそあれ生きられる環境があることを。
若い人は、「人のふりみて、我がふり直せ」を、多くの若者おじさんから得られる時代背景に。

まさに私は、若者おじさんと思われる方々を反面教師にしてきた。
理不尽を押し付けられたり、暴言を吐かれたことも数々ある。最初は、むかつく。しばらくして「あのような目にあわないためには」を考えるようになり、落ち着いてくると「自分が、あのような人にならないためには」を想うようになる。
その繰り返しを経て、ここ一年のうちに「あのような人と、有効な場面でのみ関わるためには」を、未然に考えるようになった。やっとのことである。

平成生まれ以降の若い人からは、若者おじさんがずいぶんと減るだろう。
ゆとり教育その他の影響もあり、若さ限りの憧れに縛られず、等身大に生きられる人が増えているからだ。確かに、私の世代(1970年代生まれ)より上にみられる、下積みの苦労とか、上司や客の理不尽に堪える訓練は不足しているかもしれない。だが幸いにして、正規雇用のように「一回権利をつかめば、あとはレールの上で生きられる」制度がどんどん衰えてくれるお陰で、若い人ほど、いやでも自分ゴトで考える機会に恵まれている。全部人任せには、流れづらくなっている。

このように近藤個人的には、もっと面白い世の中になっていくと考えているから、色々仕掛けていく。

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責任と恩恵のバランスこそ、正規雇用ライフ。

『日本人はとにかく組織に架空の責任を負わせたがり、個人の責任を宙に浮かせたがる。トラブルが起きたときはみんなで「どうしよう」と言い合うが、誰ひとりとして問題を解決しようと勇敢に立ち上がることも、みんなで団結して問題に蹴りをつけようとすることもない。』
中国人の質問サイトでの、「日本のダメなところ」との質問に対するベストアンサーの一節だ。→参照元

楽でいたり責任を回避するのもいいことだけど、同時にリスクを負っている覚悟も必須だ。
私は、日本が衰えているとされる大きな理由の一つが、正規雇用制度が普及し過ぎたことだと考えている。自覚無きサラリーマンが増えすぎた。

そもそも正規雇用は、組織責任の一部を継続的に担うことへの代償として、定期的な報酬と長期の労働環境を保証した制度のはずだ。
が、法的にも守られ過ぎた結果、『大きな失敗なく過ごせば、給料は出続ける。』と、解釈を間違われるケースが続出した。決まってお金が出る恩恵は、様々な人の苦労で積み立てられた結果であるとの感謝を忘れた人が、大きな割合を占めるようになった。
逆に、正規雇用を盾に日に陰に残業を強いる、悪質な社風や経営者も多々存在する。その意味でも、危険な側面を有しているから、責任と恩恵(権利)のバランスには、常々気を付けねばならい制度である。

私もまた、責任と権利のバランスを考えられなくなっていた。東日本大震災の年の暮れに正規雇用制度から離脱して以降、おかげさまで色々と考え動き、時間はかかりながらも様々な人・物事への感謝の気持ちが回復した。

正規雇用を受けたり提供している方はもちろん、正規雇用に憧れている方も、責任と権利のバランスについて考え直してほしい。

言葉を重ねるが、正規雇用を受けつつヒマしても楽してもいい。が、その分文句を言わないとか、有事の際には周囲を助ける心づもりを常にしておくとか、小さくても微々たることでいいから責任や義務を負うようにすれば、それでいいだろう。
イザという時の備えに、あえて社員や職員を遊ばせておくこともまた、正規雇用制度の長所なのだから。

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SDGsでも取り残されそうな人について

SDGs、いわゆる国連による、2030年をめどとした様々な課題解決の目標設定だ。前文の第二段落では「すべての国及びすべてのステークホルダーは、協同的なパートナーシップの下、この計画を実行する。(All countries and all stakeholders, acting in collaborative partnership, will implement this plan. )」と始まった後、末尾では「誰一人取り残さないことを誓う。 (we pledge that no one will be left behind.)」としている。

地球人全てが関わるべし計画で、かつ取り残さないということは、
これまでとは、「取り残され」の定義が変わるのではないだろうか。

2010年ごろまで

取り残されの定義例:貧困により、学習機会が得づらい人
取り残さない対策例:学費助成の拡充・無償化、および理解のない親への説得、または親と子の隔離。

取り残されの定義例:学校の勉強や組織の目標達成についていけない人
取り残さない対策例:(個別指導などではまかなえない、向き不向きの問題である場合)本人の志向を確認したうえで、研究職やスポーツ、芸術芸能など、一般的な学歴や正規雇用の枠を必要としない分野での大成を促す。

2018年現在は移行期

2030年ごろ以降

取り残されの定義例:各自レベルの目標達成に対して、自発的な動きがない人(悪く言えば、全て他者任せで自己責任ゼロを狙う人)
取り残さない対策例:上記に当てはまるも、他への文句や意見が収まらない人は、ある種の弱者と判定。文句や意見の内容が、実現困難や本人限定の欲であったりする場合、AIやニューロサイエンスで脳や体に直接働きかけた仮想現実(VR)を見せることで、まずは心身の調子を安定してもらう。(要は、穏健に黙ってもらう?)

あくまで私の偏見いや妄想にすぎないが、その日が着実に近づいているように思う。

もちろん、自己責任ゼロ狙いの人がいてもいいし、もともと差し迫った目標を持たない人がいてもいい。私自身が、そういった局面になることもあります。自分ゴトにしたくない時は、SNS反応を止めるたりしつつ内省の時間にすればいいでしょう。その頃になれば、普段ゴトの多くをAIがやってくれるから、静かに休めます。
メリハリをつけて生きる。議員や嫌われ覚悟の反対活動家でもないのに、『言うだけ番長』に陥らなければ、それで十分かと思います。

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既にある仕組みに馴れると、必ず衰えが来る

明けましておめでとうございます、ケイゾクエナジー、ぼちぼちやっていきます。
肩慣らしに、ある記事から、思いついたことを書いてみます。

新聞没落が顕著に!10年間で約1000万部が消える!電子化は?フジテレビも視聴率が最下位へ

日本の新聞。この10年で1000万部も発行数を落として、昨年には4212万部になったという。私からすれば当たり前というか、もう歴史の流れのようにみている。
報道一つとっても、官庁には記者クラブがあり、外国ニュースは通信社があるなど、はるか昔から仕組みが完成している。販売も各地の販売店や本社組織とは別の営業要員が動く仕組みになっているから、頼れるどころか、読者の声を直に受けなくてもいい状態だ。

新聞に限ったことではない。
何かの仕事をする時に、「必ずこの帳簿を使って」とか、「あの業者指定」と指示されるケースは多々あるだろう。が、固定した手順やメソッドへの依存は、中長期的には落とし穴だ。気がつけばその会社や組織独自の癖に染まってしまい、外部の変化についていけない要因にもなる。

私の業は、ケイゾクエナジーなら社会活動家、あるいはIT業界の一人であったりするわけだが、特に後者は行動変革を勧める立場になってしまう。
その際、既にある仕組みに慣れた方々と向き合わねばならない場面が、何度も生じてくる。

仕組みに慣れた方々に対して心がけていることは、ただ一点。無理強いしないことだ。勉強させない事だ。
いくらこちらが奮闘しようが、自発性がゼロではいくら掛け算しても効果は出ない。対価をもらいようもない。もちろん営業的に説得する方法もあるが、化けの皮が剥がれてからが大変だ。

それが、慣れているのではなく、何かの理由で「既にある仕組み」を守ろうとしている方だとわかれば、むしろ尊敬して助けたくなる。
要は、意思をもって昔ながら仕組みを続けているのなら良く、わからないうちに馴れている(あえて漢字を変えています)のなら、そっとしておくよりない。変わるのが怖いだけなら、なおさらそっとするよりなく、こちらが被害を受けずに済むのなら、いざこざが起こる前に退くのが得策だ。

おそらく、新聞やテレビの凋落は、憧れをもって入社した方々が、憧れに裏切られたくなくて、元の仕組みから離れられなくなったのかもしれません。ある種の、ただ”伝統を守る”みたいな心理的な作用もあるのでしょう。
もともと憧れを持つことが少なく、当の新聞記者経験に落ちた経験もある私としては、むしろこれで良かったのかもと思うようにしています。

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”ダメ・クズ”コンテンツを当面休止します

いつもお世話になっております、ケイゾクエナジー・近藤です。

一部で好評をいただいていた”ダメ・クズの生態学”コンテンツは、誤解のない内容ができるまで、休止させていただきます。
関係者の皆様にはお礼申し上げるとともに、お詫び申し上げます。

もともと同コンテンツを始めたのは、見方を変えれば長所になることもあるとの呼びかけが目的でした。まず、自信を持てと。
しかしながら、『自分はダメクズです~』と開き直る参加者がいらっしゃいました。開き直るだけならよいのですが、「自分はダメ(クズ)だから、何もしません」と、無努力無責任な生き方の論拠にされたのは、まことに残念でした。

”言うだけ番長”や”やるやる詐欺”の存在を認めたとしても、決して甘やかす気はありません。自分ゴトで考え動く人を支援してこそ、ケイゾクエナジーです。たとえごく一部であっても、受け手の一方的な誤解であったとしても、全く逆の影響を与えたことは、皆様に、社会に対して詫びなければなりません。猛省しております。

以上、皆々様のご理解をたまわれば幸いです。
引き続き、ケイゾクエナジーをよろしくお願い申し上げます。

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函館に、原発に伴う廃棄物の件で出張

少し前にも告知させていただいたものの、避けたくなる話題であることには変わりありません。が、避けて通れない話題です。国や電力会社に任せきる覚悟のある方は、特に知らなくてもいいでしょうし、私も無理に説明はしません。というわけで、ざっくり説明します。

前提として、私は、高レベル放射性廃棄物の地層処分についての地域リーダー意見交換会のメンバーに名を連ねております。経済産業省資源エネルギー庁によって年に2回ほど開催され、各地の活動家や企業人が招集されます。直近の回が、去る11月18日に函館にて行われたため、この記事を書かせていただくものです。

概要・地層処分と直接処分について◆◆

ここでいう高レベル放射性廃棄物とは、原子力発電で使用された燃料から、発電に再利用が可能なウランやプルトニウムを取り出す、再処理の過程で生じる廃液などだと思ってください。この廃液などを、40年ほど貯蔵施設(日本国内で青森県六ケ所村に存在、周囲は風力発電銀座でもある)にて熱を冷まします。そのうえで、ガラスで固めて物質を安定させ、さらに金属製のパックに閉じ、地表から300m以上の地下に埋めるのが、地層処分です。
あれ、再処理を続けるの、まだまだ原発を続ける前提だろう・・・
とお察しの方もいると思いますが、これが難しい。仮に廃炉ラッシュをかけたうえで、そのまま使用済み燃料を廃液などと同じように地中深く処分する(これを日本では「直接処分」と言い分けています)場合、すぐ核兵器に転用できる物質をため込むことと同義になってしまいます。

まとめると、
地層処分のみだと、再処理が前提で全面廃炉から遠ざかる
燃料の直接処分だと、核兵器製造の可能性を残す
という、何とも二律背反な話です。
※このロジックは、タブーとされている議論に触れるので、公には取り上げられませんが、この近藤は純粋に私人ですので、言ってしまいます。

温暖化かつ戦争の原因となる石油にも、大きすぎると自然破壊の要因になる水力にも、依存しないつもりで手をだした原子力。エネルギー源のない島国が、爆弾の惨禍を味わった我が国が、なんとか欧米とやり合うべく工業化してきた宿命というほかありません・・・

政府・電力会社関係の動き(兼リンク集)◆◆

以上のこともあり、日本政府(資源エネルギー庁)および、9電力会社など原発を行う事業者による拠出金で運営されるNUMO(原子力発電環境整備機構)では、地層処分を進めています。(もちろん直接処分も、日本原子力研究開発機構などで研究されています)地層処分の専門機関であるNUMOの始動は意外と遅く、2000年に成立した「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」に基づき、同年10月に設立されています。
それが今年の6月になって、処分地の選定を前にして、地層や地下資源、断層などの色付けをした「科学的特性マップ」を公表しました。資源エネルギー庁・NUMOはこのマップを説明すべく、私が参加している地域リーダー意見交換会とは別途に、福島県を除くすべての都道府県で、一般向けの意見交換会を開いています。(10月26日の投稿でも紹介した催しです。11/22時点で半分ほどの地域で未開催で、申し込みも間に合うようです。)

今秋開催の意見交換会における学生動員問題◆◆

ところが、開催済みの一般向け意見交換会で、金品や便益との引き換えで参加していた学生の存在が発覚しました。
報道された内容ですので、両機関の責任者より得られた情報から、私なりに説明させていただきます。

事件が発覚した11/6の埼玉会場まで、計10回の意見交換会が開催されました。うち、NUMOから委託を受けた(株)地域力活性化研究室から、さらに再委託を受けた(株)オーシャナイズによる学生の動員がみられたのは、東京、愛知、大阪、兵庫、埼玉の5か所。兵庫までの4か所は委託業者が学生団体などに対して行っている便益(事務経費の負担や協賛など)との引き換えによるもので、謝礼や物品の供与まで学生が示唆されたのは埼玉会場のみだったとの説明です。
ちなみに、私が二人の学生を誘った奈良会場(11/1)は、一次委託先や再委託先による動員はなかったとの説明でした。確かに、報道陣を含め66名とされる参加者のうち、この近藤は下から数えて10番以内であろうという高齢化ぶりでしたので、委託業者が勝手に焦ったとしても、仕方がないと言えば仕方がありません。

仕方がないで済まされないのは「金品と引き換え」での動員です。
民間企業であれば、商品モニターとして何らかの謝礼を渡すことはありますが、この会は、地域政治にも絡むテーマについて、政府が「自発的な」意見を聴取するものです。金品で意見を「誘導」した疑問が残ってしまっては、今後の展開に対する信用が損なわれたとしても、まさに仕方がないでしょう。

18日に函館で行われた地域リーダー会では、当初の予定を変更の上、この件について大きく時間が割かれました。各参加者からは、様々な非難や批判が噴出しました。

私・近藤から、資源エネルギー庁およびNUMOの担当者に述べた意見は、以下の通りです。
・晩も開催すればいい。平日昼間にしかやらないから、委託業者が集客に追い込まれる。
(参加者数を追い求めるからいけないとの意見の後で)
・学生だけが若者ではない。平成生まれの社会人などにも目を向けてはどうか。

両担当者からは、すでに反省点を挙げられましたので、(最もうるさいとされるらしい)私からは、非難よりも事後策を挙げるようにしています。いずれの内容にもご納得いただいた反応でした。それでも行政の慣習上、いったん決まった開始時間を繰り下げることは難しいかと思われ、今年中の会での実施はあまり期待できません。(というより、期待しないようにしています。)

私自身は、世耕弘成経済産業大臣のように、この件に委託業者を使うなとまではいいません。開催時刻を見直したうえで運営・広報等の委託にとどめ、それでも参加者が来ないなら「国民が悪い面もある」と割り切る姿勢も、時にはありでしょう。
もちろん、一時的にでも委託業者を使わないことで、広告代理店など民間ならではの行き過ぎたプレイを見直すきっかけにはなります。一次委託業者である地域力活性化研究室は電通からの受注も多いとされ、NUMO自身からも電通・博報堂への発注がみられますから、『民間への告知は、民間の営利企業でないと』的な諦めもあったのでしょう。
せっかく、地域リーダー向けの意見交換会があるのですから、私を含め活用いただければと思います(勝手に動いていますが)。もしかすると、NTT出身でもある世耕大臣は、ITなどによる個々のコミュニケーションの広がりも見据えて、委託は使うな発言をされたのかもしれません。

さらに私見ながら、学生への交通費支給はあって良いと考えます。この20年間前に比べ物価上昇が1%以内で収まっている状況で、大学学費だけは国公立私学ともに15%ほど上昇しています。いくら年間十数万円程度の違いとは言え、原発の恩恵にあずかっただけである私より上の世代との格差を埋めるためにも、必要な措置かと思います。
もちろん予算に限りはありますので、始めから交通費のみ支給をうたい、定員を設けたうえで学生だけの意見交換会を設置していれば、もっと穏健な形で学生を集められたでしょう。(実は「学生だけ」だから集まりやすかろうというのもポイントですが、この点は別でお話ししたく思います)

なお、地域リーダー会については招集される立場になりますので、この私も、交通費支給と宿泊手配を受けております。だからこそ少しでも税金の有効活用に寄与すべく、この記事を書いている次第です。先ほど純粋な私人とはいいましたが、経費とはいえ公費をいただいた時点で、公人としての性質が発生します。

以上を受けて、ケイゾクエナジーと私人・近藤の動き◆◆

この話題を直接扱う会をしばらく行っておりませんでしたが、かえってやってみようかと思います。→2018年2月11日、大阪でやります。
私自身も自由に意見を述べやすくするためにも、事務経費や教材作成を補助する仕組みは使わないでおきます。政府・電力会社系からのサポートは、既存教材の無償提供や専門家の派遣にとどめるような形で考えております。ご興味や場所のご提供などご協力のお申し出などあれば、心強いです。

引き続き、ケイゾクエナジーをよろしくお願い申し上げます。

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若者の無礼をすぐに責められなくなった

私が、知らないうちに無礼を働いたことは数知れずだろう。若いころなら、なおさら。かといって、今から抗議が来ても、当事者意識を思い出せず反省気分にはなりづらいから、実に心苦しい。

そもそも無礼とは、やり取りする者同士の主観がずれただけでしかない。
・・・と、やっとこの歳でわかってきたから、無礼を働いてきた相手を責めるのが難しくなってしまった。

常にタメ口の間柄なら丁寧語も何もいらない。「こんなもんだろう」が、お互いにわかっているからだ。私の両親なども、そうだ。
逆に緊張した間柄ならおのずから敬語か、年長者であっても話口調がゆっくりになったりする。この私とて、20歳も離れた若者であろうが、文章上はですます調を使い続ける。ですます調でなくなってもいいだろうと思ったら、抗議されたこともあるぐらいで、そこで争ってもしかたがない。

それで、ある学生に『メールよりLINEのほうが楽です』と言われたのは、非常に納得してしまった。メールは手紙文化の部分が残っているから、宛書や出だしの「いつもお世話に~」の文ぐらいは要るとされている。一方でLINEは、前段の挨拶など要らない。ですます調ぐらいは守っていればいい。

様々な世代の方と関わっていると、成熟と無礼はあまり関係がないようにも思う。

人前で、些細な言動について叱咤する中高年。
本当に相手を正したいなら、恥をかかせないように裏で伝えてやって、本人の気持ちにしみいるようにした方がいいだろう。あるいは、本人に悪意がなかったことを認めたうえで、「思ってもみない悪影響が出る可能性」を知らせるのもいい。まさに、知らないうちの無礼を少しでも減らすのは、年長者の役目だろう。

話の頭から、興味ないです~と発する若者。
興味関心があるふりを続けてから断るよりは潔い。が、「私に話さなくてもいいよ~」の態度を早々にとってしまっては、次のチャンスがもらえなくなるだろう。もらえなくなる覚悟があるならいいが、私がそういう態度を取られた場合、当面こちらから話すのを控えてしまう。話すことすら無礼扱いされるのでは、やむを得ない。責めはしないが、与えることも止める。経験不足の面もあるだろうから、ほぼ放置に近い形で待つしかないというのもある。

以上のことは、先天的に無礼を働きやすい脳の働きを持った人もいるから、一概には言えない。
ただし、全てを先天的特徴の責任にしてしまう人とは一緒にやりづらい。前段と同じように、責めはしないが、与えることを止めるよりない。

ある一定以上の『無礼』を感じてしまったら、己の正義を振りかざしても、悪い意味での世界の警察・アメリカ合衆国のような立場になってしまうようで、気分がわるくなるのだ。
いったん主観の防衛に熱を上げた相手に反駁しても、さらにヒートアップするのは目に見えている。たとえ心の中で「あいつ○○してやる」と思っていても、責めるよりはじっと黙っているほうが清々しい。好きの反対は無関心、嫌いの反対も無関心とは、良くいったものだ。

幸いにして私は、この2年ほどで様々な無礼を与えてもらって、成長できた。同じ無礼を二度と体験したくはないが、経験は生き続ける。相手の多くに悪意はない。故意ですらない。むしろ故意であったほうが責められるから、かえって楽だ。

当ケイゾクエナジーでは、無礼を超えるべく様々な企画をやってきた面があるが、ようやく壁にぶつかって、この近藤も気づくところが多かった。

無礼が主観の違いによる葛藤でしかないなら、『あなたの主観に合わせます』『(責任持って)こちらの主観を現します』とか『主観は出し合うにしても、押しつけは無しに』と、あらかじめ断っておけばよい。お互い、先に諦めておけば、くだらぬ争いは起きない。

いわゆる日本人的?に曖昧にした会では、数々の方に迷惑をかけてしまいました。
あらためてお詫びさせていただくとともに、今後の催し等にご期待をいただければ幸いです。

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