「若者おじさん」について

若者おじさんが増えたとの表現を目にする。広い意味ではこの私も含まれるだろう。狭い意味では、いつまで経っても若いころのままで、筋トレとかオールで飲んだとかいかにも20代までのリア充感を、インスタなどにさらしている人のことを指すらしい。
若者おじさんには、別の定義も考えられる。苦手なことを諦められない人だ。
等身大の自分をわかっていて腰を低くでき、時に協力し合えるのが「大人」だと、私は解釈している。腰が低いだけでなく自己主張も大切だが、その後始末が出来るのもまた「大人」である。

もっと昔から、若者おじさんはいただろう。
だが、福祉制度や毎月給料が出るような働き方が珍しかった当時、本当に特徴のある人だけが生き残っていたように思う。すぐキレたり子どもっぽくて扱いにくいオッサンでも、アートとか技術など何か一芸に秀でていれば、周囲から認められた。

が、戦争に敗れた日本が(ほぼ自主的に)アメリカの傘に入り、経済成長を優先的に推し進めた結果、若者おじさんが生きられる枠が広がった。1950年代から1980年代にかけて、安い賃金と高い工業技術というアンバランスを生かし、とにかく海外に製品が売りまくれた時代。一芸に秀でていなくても、働き手が必要だった。
それで終身雇用と福祉を売りにした人材採用が一般化して、多分に面倒な子どもっぽさを持つ人でも会社に囲われるようになった。一向に大人にならなくとも、簡単に解雇できないから、生き残ってしまう。つまり30代で正社員身分を捨てた私は、囲われる気楽さを自ら捨てたバカだといえる。

大変失礼な話だが、今の若い人が目にする鬱陶しい大人≒若者おじさんは、先に挙げたような20世紀後半ならではの社会背景で生き延びた人もいるだろう。100年以上前なら、その多くがとっくに野垂れ死んでいる。私もそうかもしれない。

だからこそ、感謝せねばならない。
今、若者おじさんに当てはまる人は、大小の差こそあれ生きられる環境があることを。
若い人は、「人のふりみて、我がふり直せ」を、多くの若者おじさんから得られる時代背景に。

まさに私は、若者おじさんと思われる方々を反面教師にしてきた。
理不尽を押し付けられたり、暴言を吐かれたことも数々ある。最初は、むかつく。しばらくして「あのような目にあわないためには」を考えるようになり、落ち着いてくると「自分が、あのような人にならないためには」を想うようになる。
その繰り返しを経て、ここ一年のうちに「あのような人と、有効な場面でのみ関わるためには」を、未然に考えるようになった。やっとのことである。

平成生まれ以降の若い人からは、若者おじさんがずいぶんと減るだろう。
ゆとり教育その他の影響もあり、若さ限りの憧れに縛られず、等身大に生きられる人が増えているからだ。確かに、私の世代(1970年代生まれ)より上にみられる、下積みの苦労とか、上司や客の理不尽に堪える訓練は不足しているかもしれない。だが幸いにして、正規雇用のように「一回権利をつかめば、あとはレールの上で生きられる」制度がどんどん衰えてくれるお陰で、若い人ほど、いやでも自分ゴトで考える機会に恵まれている。全部人任せには、流れづらくなっている。

このように近藤個人的には、もっと面白い世の中になっていくと考えているから、色々仕掛けていく。

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